かつて世界はひとつの巨大な大陸だった。 後の時代に竜の大大陸と呼ばれることになる広大な大地も、かつては火を起こし、水を貯え、青銅を武器とする人間のものだった。 ドラゴン種族と呼ばれることになる超常の存在は、ある日どこからともなく人間たちの世界に降臨し、力のままに空を穿ち、意のままに海を割り、望むままに大地を埋め尽くした。地面を踏み鳴らす蹄の音は地鳴りのようで、大地を駆ける姿は雪崩のようで、天を突く咆哮は嵐のようで、されど佇む姿は人に似たそれは、いつしか地竜と呼ばれ、大陸中北部の大山脈を除く平原のほとんどを制圧した。 人間たちの築いてきた国は、巨大な蛇が這った後のように雑草すらも例外なく踏み躙られ、残された彼らの血と骨と髪は空以外の地上のすべてを朱に染めた。 大陸世界は瞬く間に、人間から竜の所有物へと成り果てた。
しかし数多の亡骸の上に築かれた王国もまた、より強大なドラゴンによって灰燼と帰し、大大陸の王は地の底へと葬り去られることとなる。 一体の魔竜が戦旗を掲げて、ありとあらゆるドラゴン種族を根絶やしにする大戦争を起こしたのだ。
やがて支配者を失った大大陸はその7割が海の底へと沈み、滅びを免れた海竜たちによって分断され、残された各大陸は辛うじて生き残ったドラゴン種族と共に独自の進化を遂げた。 そのひとつが人間の小国と半獣種族の大国が不思議と並び立つ天秤の壊れた世界、バスコミアナの大鍋と呼ばれる大陸。 ちなみにバスコミアナとは一千年前にドラゴンとの闘争に敗れた人間の神の名で、その傷跡として大陸南部に巨大な窪地のようなクレーターを遺したのは、意外にもあまり知られていない話ではある。
偉大なるドラゴン様を王と崇める半獣種族たちの国オルム・ドラカは、巨大な窪地に築かれた王都であり宗教都市であり、同時に対人間用の城壁に囲まれた城塞都市でもあり、その城門は滅多に開かれることはない。しかし数十年から数百年に一度、余程の強運か加護でもなければ渡れるはずのない外海からの来訪者を迎えるために、重く分厚い鋼の扉が開かれる日が訪れる。 メタテリア商船団は外洋航海術が失われて久しいこの世界で、おそらく唯一の、荒々しい海の支配者たる海竜の顎を避ける手段を持つ船団であり、聞けば誰もが納得する理由で外海を渡る特権を持った者たちだ。 商船団の主、ノルベルグ・メタテリアは地竜だ。かつて大大陸を支配した地竜王トール・メタテリアの第七王子で、魔竜王ラティフォリア・ドラグニール様が最初に手を結ばれたドラゴン種族の叛逆者。 とどのつまりはそういうことなのだ。海竜が海の覇者といえど、所詮は中型種の凡庸なドラゴン。知能でも腕力でも劣る海蛇風情が、種族の中では小粒な体躯の地竜とはいえ、曲がりなりにも大型種のドラゴンと真っ向から戦う度胸など持ち合わせていない。単純にそういう力関係の話でしかない。 もっとも地竜も海竜も、我らドラゴンでない種族からしたら強大で巨大で偉大な存在であることに変わりないのだが。
申し遅れた、私の名前はグウィネス・ゲールノート。ドラゴン様に仕える竜神官といえば、なんだかとても聞こえがいいが、その実態は気紛れなドラゴン様の身の回りの世話をする親戚のおばさんのような立場の、蜥蜴の半獣人ウェアリザードのお世話係だ。普段は定食屋【シャモフの血の一滴】で、チーズ入り卵焼きを延々と焼いている。 ちなみに店名にもなっているシャモフ・ゲールノートは私の兄で同じく竜神官、普段は水牛の香草焼きを延々と焼いている。他の店員も全員ゲールノート家の兄弟たちで全員が竜神官、普段はそれぞれが豚とチーズの香味焼きとか、ワニの塩焼きとか、芋のすりおろし山芋合わせ焼きなんかを延々と焼いている。そこら中でなにかしら焼いているため火事になること通算二桁、それでも不思議と廃業せずに済んでいる庶民と酔っ払いのための店だ。
「……おはよー」 「おはようございます、ドラゴン様」 「……ふわぁぁ、ねっむい……」
そしてこの眠たそうに大欠伸をしながら、右に左にふらふらと歩いている贔屓目なしでも素晴らしい美少女が、このオルム・ドラカの王であるドラゴン様。私たち下賤の者共にも呼べるように名乗ってくださっている名前は、ラティフォリア・ドラグニール、かの魔竜王とはこの御方の名前なのだ。 控えろ、そして崇めろ、跪いて足の裏も舐めろ。やっぱりやめろ、ドラゴン様への不敬である。 ドラゴン様はドラゴンらしからぬ性格をしているので、普段は酒場はハルロ・ガダンの鉄槌の酒場を初めとする大衆居酒屋で週の半分以上を働いている。もちろん本来は労働など不要、しかしドラゴン様はお優しい御方なので、私たち下々の民と同じように働き、同じ物を食べ、同じ喜びを分かち合ってくださっているわけだ。 これで愛されないわけがない。オルム・ドラカの多くの民はドラゴン様を好きだし、私たち竜神官にもなれば好きとかそういう感情では追い付かない、これは最早愛だ、という若干邪な気持ちを抱いている。仮にドラゴン様に好意を抱いていない不遜なゴミ共も、その力には平伏せざるを得ず、魅力も含めたドラゴン様の力のおかげでオルム・ドラカの民同士で争うことはない。ましては醜い種族間闘争も起こらない。 自分たちの頭の上に神々しく輝く無差別殺傷爆弾が浮いている状態で、わざわざ導火線に火を点すような馬鹿な真似をする生き物など、この世界には人間くらいしか居ないのだ。
「……んで、今日の客って誰だっけ?」
ドラゴン様は目が開いているのか開いていないのかわからないような、眠たさに満たされた状態で椅子に座り、そのまま大きく欠伸をしながら髪を整えさせるために頭を傾ける。 ドラゴン様は紫がかった黒い髪を肩まで伸ばし、頭には槍の穂先みたいな形状の一対の角を生やして、ウェアリザードと同じように、いや正確にはウェアリザードが同じようになのだが、瞳の瞳孔は爬虫類のように縦筋に伸びて色は黄金のようで、背丈はオルム・ドラカに暮らす種族全体で見ても小柄で、色の白い手足は健康的ではあるものの細い。そして胸元は当たり前に平たい。 ドラゴン様の生態がどういうものなのかは未だに不明だが、爬虫類や両生類の性質を持つ半獣種族に乳房は必要ない。そんなものをぶら提げているのは哺乳類に近い半獣の雌と人間種族の雌くらいだ。 甲羅のような外殻に覆われた尾が生えているが、原理不明な収納方法が出来るようで、普段はうんこする時に邪魔という理由で体内に隠している。特に不自由はないらしい。 本来の姿は、邪悪と畏怖を煮詰めたような複数の首と頭を持つオルム・ドラカ全土よりも巨大な竜だが、その大きすぎる力と体は、普段は深層蛇の杖という術具に封じ込めている。 また、男女の性別はあるようで生物学上の区分は女、年齢は二千歳を何百年か過ぎたくらい。生き残ったドラゴン種族の中では若輩の部類で、魔竜王としての寿命どころか一般的なドラゴンの寿命でも半分に至っていない。 此度の客であるドラゴンの商人は、ドラゴン様よりもひとまわり以上年嵩で、このひとまわりとは千年を意味する。