―知り合いと久しぶりに会うと面倒に巻き込まれる―

かの有名なゲーテの言葉だ。ゲーテはそんなことは言ってなかった気もする。でも面倒には巻き込まれがちだ。保険の勧誘、宗教の勧誘、マルチの勧誘、連帯保証人の勧誘、4つ目は勧誘じゃないな、お願いである。 とにかく久しぶりに会う知り合いほど面倒なことはない。それが学生時代という名の、人生の節目みたいな時期に知り合った顔であれば余計にだ。 普段より幾分か高めの居酒屋のカウンターの端っこで後輩、そう彼は後輩だ、大学で同じサークルだった。といっても私とは1年ほどしか接点がない限りなく関係性の薄い、限りなく透明に近い麦茶くらい薄い間柄の後輩だが、後輩であることには変わりないし、同じ町内に住んでいるため道端で遭遇すれば挨拶くらいはしてくれる、そういう後輩だ。 ……それは後輩なのか? ただのご近所さんなのではないか? つまり、そういう後輩だ。イコール何者でもない男だ。 その何者でもない後輩が、入院半年目の患者の顔で空になったジョッキを見つめている。目の下のクマはやばいし、頬はまるで骸骨だ。背中は劣化したフェンスのように歪んでいるし、濁った瞳は深海の魚そのものだ。不健康きわまりないな!

話は1時間前にさかのぼる。いつものようにバイトを終えて、家で柿ピーでも齧りながらビールを飲もうと思ってたら、後輩くんから飲みに誘われた。以上、回想終わり。

「それで君、今日はどうしたんだね?」 ジョッキを見つめるゾンビモンスター形態の後輩に声をかけると、ガバッて擬音が漫画みたいに浮かぶ勢いで頭を上げて、 「だからさっきから言ってるじゃないですか! ひどいんですよ、うちの会社!」 そのまま文字にして便箋20枚には渡ろうかという愚痴の数々を垂れ流しはじめた。 いわく、非常にブラックである。平均睡眠時間3時間、週休0日、残業は毎日、パワハラも毎日、セクハラ目撃談多数、毎日エナドリを山のように飲み、就職してから今日まで朝日も夕日も1度も見ていない。それどころか日光も浴びていない。しかも手取りは20万円以下。 実にブラックである。墨汁よりもイカ墨よりも黒い。明日はペイントイットブラックでも聴こう、家でひとりで。 「もう無理です。このままだと社長を〇してしまう」 どうやらこの後輩、1年半にわたる就職活動、そして3か月に及ぶ社会生活で完全に疲れ果てたらしい。 人に殺意を抱くときは疲れている時だ、パラケルススもそんなことを言ってた気がする。言ってないか? しらん。 とにかく人に殺意を抱くときは疲れている、正常な判断が出来ないくらいに。 「僕はこのままだと、駄目な人間になってしまうんです!」 「そんなことはないよ。こうして立派に働いてるじゃないか、明日にでも辞めた方がいいと思うけど」 「駄目な人間なんです!」 カウンターを強く叩きながら後輩は立ち上がり、さあ今から演説の開始ですよ、といったポーズをとっている。 ビール1杯でここまで酔えるものか。後輩の手元にあるジョッキは1、かたや私の手元のジョッキは4代目、気分的にはまだまだ飲み足りないが、一方で今すぐ帰りたい、そんな二律背反の中でジョッキを掲げて5杯目を注文する。 「僕はこのままでは、あの誓い通りの生き方が出来ない!」 「近い? 距離の話?」 「違います、先輩が卒業式の時に言った桃園の誓いみたいなやつですよ」 そんなこと言ったっけ? 言ったなあ、そういえば。言った言った。我らこの場にいる10名だか何名だか、これから進む道は違えども、人に恥ずかしくない生き方をうんたらかんたらそいやっさどやさわっしょいわっしょいどっこいしょ、そんな感じのことを。 当時の私はものすごく酔っぱらっていた、大学内での飲酒は厳禁だったけど、とにかく酔っていた。社会に出るのがすごく嫌だったからだ。今でも嫌だけど。多分生まれて初めて目が開いた時にすごい怖かったと思うけど、おそらくそれに匹敵する怖さだった。ゆえに朝から飲んでいたので、酔っていたことは別段不思議ではない。 ちなみに、そんなことを口にした理由は覚えてない、多分その頃見てた映画の影響だと思う。ついでに言うとサークルは映研だ。 「先輩も覚えてますよね!」 覚えているわけないだろう。内容もなんかそれっぽい思いつきだぞ。 しかし私にも先輩としての威厳がある。口が裂けても知らないとは言えない。 「勿論覚えてるよ。えーと、刺身盛り合わせ、合鴨つくね、もつ煮込み」 「このままだと僕は、胸を張って生きられない人間になってしまうわけです!」 よかった、聞いてないわ。しかしこの後輩、私が適当に口にした言葉にそんな感銘を受けたのか。宗教に騙される才能ナンバーワンだな。あとで注意しておいてやろう。 「僕は汚い人間なんです。仕事中も同僚と罵り合ったり、弁当を食べながらヤフーニュースのコメント欄でレスバトルしたり、寝る前には必ずツイッターで凍結ギリギリなリプを送り、起きたら必ずネット掲示板に悪口書き連ねるような、そんな最低な人間になっちゃったんですよ!」 すごいな、げろクソしょんべんビッグカーニバルじゃん。 っと、いかんいかん、ここは先輩らしく、この落ちるとこまで落ちた後輩を、温かい言葉で慰めてあげないと。 「先輩、なにか言ってくださいよ……」 「すごいな、げろクソしょんべんビッグカーニバルじゃん」 「そんなことないって言ってくださいよ!」 ひぃんと声を上げて泣きだす後輩の頭から頭上20センチの位置をエア撫でしながら、他人の不幸は蜜の味というけど、至近距離で味わうと蜜というより汚物だな。悪気はないけどそう思ったのだ。 「大丈夫だよ。世の中には子どもを襲ったりする人間もいるじゃないか。そんな奴らよりは幾らか上等だよ」 「そんな目くそと鼻くそ、どっちがマシかみたいな慰め方しないでください!」 めんどくさいなぁ。 「先輩にはわからないですよ」 「失礼な、私にだって君の気持くらいわかるぞ」 「わからないですよ! 頑張って就活を乗り切って、やっと内定貰えた会社がクソブラックだった奴の気持ちなんか!」 おうおう、言ってくれるじゃないか。どうやら後輩の目には大学時代の私は就活もせず、自由気ままに日々を無為に過ごす放蕩貴族のように映っていたようだ。そして放蕩貴族はそのまま放蕩のまま社会に巣立ち、ふらふらとバイトをしながら、今ものんべんだらりと生きている、そう思っているのだろう。実際そうだけどな! だがしかし、後輩に侮られるのはよろしくない。私の沽券にかかわる。 「だって先輩、就活してなかったでしょう。みんな言ってましたよ、ああはなるな、地に足をつけて生きろって」 あいつら、そんなこと言ってたのか。同窓会の案内が来ても出ないことにしよう、来たことないけど。 「就活してない人に僕の気持ちはわからないですよ」 「私だって就活くらいしたぞ。ただ、ちょっと就職課を出禁になっただけで」 「なにやったら出禁になるんですか!?」 そう、私も就活はした。ただ合同企業説明会の1社目で、何列か並べられた椅子の群れの真ん中より少し後方に座ってたら、2列目から後ろは積極性がないので当社には不要なので帰りなさい、と言われて、なんか腹が立ったから、パンフレットを丸めてスリークォーター気味に投げつけたら怒られて、そのまま帰らされて色々あった末に就職課を出禁になってしまった。だから、それくらいしか就活を知らないけど、気持ちはわかる。 なんていうか、大変だなー、とか。 悔し涙を流しながら、我が身の不幸を訴え続ける後輩を見て、人間はそこまでして働かないといけないのか、どうにかうまいこと5000万円くらい入ったアタッシュケースを拾ったりできないものか、そう改めて考えたりするわけだ。 それでも人間は働かないと生きていけないし、金がなければビールを飲めない。だから働かないといけない者の苦悩、それは身に沁みてわかっている。だからこうして、他人の不幸にも耳を傾けているのだ。こういうのを真の意味での助け合いというのだろうし、人類はおそらくこんな営みを続けて互いを支え続けてきたのだろう。知らんけど。 「まあまあ、今日は私が胸を貸してあげるから、胸襟を開いて全部スッキリ吐き出すといいよ」 我ながら素晴らしい言葉だ。もし立場が逆だったら、この御恩は一生忘れません、と感謝の言葉を示し、跪いて靴に接吻を捧げているところだ。 しかしこの後輩という生き物は、水道の元栓を占めるかの如く泣き止み、 「先輩の! 胸は! 地平線くらい! なんにもないじゃないですかぁ!」 酷い暴言を投げつけてくる始末だ。 私の胸が小さいのではない。周りが大きすぎるのだ。私は普通、周りが異常、ただそれだけの世界の真理に気づかぬ上に、世界に反逆するかの如き暴言、しかも小生意気に地平線に例えてきたのだ。 言ってくれるじゃないか、そっちがその気なら、こっちも出るところに出るぞ。大人がいかに卑劣な手段を用いるか、骨の髄まで叩き込んでやる。 私は笑顔で後輩に微笑み、 「大将、十四代を2合。吟醸を、彼の奢りで」 ついでにテーブル席からこちらを眺めていた小刻みに震えるおじさんに向き直り、人差し指をピンと伸ばして口元に当てた。絶対に値段を教えるんじゃないぞ、という意味を込めて。 「先輩、十四代って何ですか?」 「ふふふ、君はまだ知らなくていい名前だよ」 そう、世の中には知らない方がいいことはたくさんある。不幸な歴史であるとか、法の抜け穴であるとか、後で支払うことになるお酒の値段であるとか。 だけど、人間はいずれ知ってしまうのである。知りたくもないのに不幸な境遇を味わったりする。その時に生じる苦しみに耐えられるように、お酒であるとか娯楽であるとか、はたまた愚痴をこぼす相手であるとか、そういったものがあるのだろう。 そういうカテゴリーに落とし込まれるのはいささか腑に落ちないが、もっと下の存在にカテゴライズされるよりはマシだ。憎悪の対象とか嫉妬の対象とか、そんなものに落とし込まれるなら愚痴相手も立派なものかもしれない。そう思うと、もうちょっと聞いてやろうという気になるから不思議なものだ。 「大将、彼にも生ビールを!」 今日はとことん飲み明かそうじゃないか。 彼にビールのジョッキを手渡し、聖女のように微笑んだ。

翌朝、店の前を通ると、なんたら・オブ・ザ・デッドに出そうなモブゾンビもかくや、といった様相で後輩が地面に口づけする態勢で酔い潰れていた。 そういえば飛び降り自殺はキス・ザ・グラウンドっていうんだっけ、と頭の中をくるくるさせながら見下ろしていると、死にかけの蚊の羽音くらい細い声で、 「もう駄目だぁ」 などと独特の鳴き声を発している。 大丈夫、君の人生はここから始まるのだ。いつだって空は青いし、太陽は輝いてる。残念ながら今日の天気は曇天模様だが。 私はポケットからスマホを取り出し、1を2回と9を1回プッシュして、爽やかにこう語りかけた。

「救急車1台お願いしまーす」

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