私が今の仕事をするようになったのは16歳の頃だ。 生前、私の保護者を買って出た叔父が、労働が許される年になったら情報屋の百々山君を訪ねるように遺していた。叔父はおおよそ争いごとに向いていると思えない体型をしていたけれど、れっきとした殺し屋の頂点【鮫】のひとりで、頭のおかしいマッドサイエンティストだった。 私の正体不明の伝染病を、実験動物という体裁の犯罪者を何十人も用いて解析し、私自身を中心に半径30メートル以内で24時間離れず過ごしたものを自然死させる等、幾つかの法則のようなものを導き出した。 そういう流れもあって、私の持つ伝染病が殺しの役に立つと判断した叔父は、天涯孤独の身となった私にあらかじめ食い扶持を用意しておいた。これが保護者としての義務感なのか、養父としての愛情なのか、単に自分の研究成果を自慢したかったのか、叔父亡き今となってはわからない。 ただ、出生届すら出していなかった父に代わって戸籍を作り、少なくとも労働年齢に達するまでは飢えて死ぬことのないように生活費を口座に遺し、学校にすら行ってない私に義務教育レベルの勉強をさせるように大量の教科書や問題集を買い溜めていた。そういった部分は今でも感謝してるし、どれだけ礼を言っても足りないくらいに恩を感じてる。 それはそれとして、救いがたい嫌な奴ではあったけど。

「あなたが情報屋の百々山君だな。叔父のダルマの紹介で仕事を貰いに来た」 「ダルマさんの紹介? 君みたいなお嬢ちゃんが?」

当時の百々山君はファッションモデルくらいスリムな体型のいわゆるイケオジ系中年で、まさか数年の内に少なくとも70キロ以上も太るとは誰しも予想してなかったと思うけど、あまり関係ない話だ。会う度に増量していく百々山君を見て、絶対にこうはなるまいと私の乙女心がざわついたりもしたけど、それもまったく関係ない話なので省略する。 「ダルマさんかー。困ったな、死んだとはいえ鮫とはあんまり関わり……あれ? お嬢ちゃん、何処にいったのかな?」 「……ずっと目の前にいるけど」 「うわぁ! びっくりした! おかしいな、いなくなったと思ったのに」 私は昔から究極的に影が薄い。目の前に立ってるのに見失われることなんて日常茶飯事だし、別にそれを失礼だと思わない程度には慣れてる。叔父だってテーブルの向かいでごはん食べてる私を見失って、モルモットが逃げたって慌てて探しに出たことが何度もあった。それくらい私は気づかれにくいし、見失いやすいし、当然忘れられやすい。この後、事務所の外に出た途端に、百々山君も私の存在を記憶から消し去ってしまうだろう。 「とにかくだ、ダルマさんの紹介といってもだね、君、なにが出来るの? 情報屋かい? それとも運び屋かい? 葬儀屋や不動産屋が出来るとは思えないけど、あれかな? 娼婦にでもなりたいのかい?」 百々山君の反応はごくごく普通の、当たり前のものだ。いきなり10代の若い女が訪ねてきて、仕事をくれと言われても、そんな小娘に何ができるんだって話だ。なにか自分の実力を示してからモノを言ってみせろって話だ。 そう思うことは百も承知だし、私も予想済みだ。 だから手土産は用意してある。 私は旅行にでも使うようなサイズのスーツケースを百々山君の前に運び、ベルトのロックを外してファスナーを引っ張った。

「……なにそれ?」

私がまず取り出したのはウィスキーの瓶だ。このお酒は百々山君のマンションの冷蔵庫から拝借したもので、勘のいい情報屋ならこれで気づいてくれると思ったのだけど、いまいちピンと来てないようなので次の戦利品を取り出してみせる。 「靴下? なんか見覚えがあるような?」 「この靴下は百々山君、今朝君の部屋から拝借したものだ。ちなみにさっきのウィスキーも君のものだ」 さらにスーツケ-スから百々山君のキッチンから拝借したコーヒーメーカーとマグカップを取り出して、目の前のカウンターの上に乗せる。 「え? 君、何してんの!?」 「ちなみにパソコンデスクの上に置いてあったマトリョーシカ、あの中にはアンパンを詰めておいた」 「何してくれちゃってんの!?」 いい感じに驚いてくれたので、ウィスキーがあったところにはミニつぶあんパン5個入りを差しておいたことや、靴下の代わりにアンパンを吊るしたこと、コーヒーメーカーとマグカップの位置にアンパンを盛っておいたこと、さらには事務所のパソコンに勝手にフォルダをひとつ作ってパスワードを掛けておいたことを伝えた。 「ちなみにパスワードはAnpanだよ」 「意味不明なアンパン推しもだけど、いつから!? いつから僕の部屋に出入りしてんの!?」 百々山君の驚きについ自慢気な顔をしたくなるけど、すぐに調子に乗る人間が信用を得るのは難しい。なるべく冷静で淡々とした口調を崩さないように注意が必要となる。 「百々山君のことを3日間尾けさせてもらった。ここで客がいない間に鼻毛を2回引き抜いたのも3回おならをしたのも当然見ているし、部屋でエッチなDVDを鑑賞してるのも見た。これは私からの忠告だけど、目玉焼きには塩を振り過ぎない方がいいし、マヨネーズよりは醤油をおすすめする。あと女子の魅力はおっぱいの大きさではない、断じて」 いつの間にか百々山君の恥部に触れたらしく、なんか動物の鳴き声みたいな音を発しながら頭を抱えて蹲ってるけれど、肝心なのはアンパンにすり替えたとか恥ずかしい場面を見たとか、そういうところではない。 「いいかい、百々山君。君は3日間、私に尾行されて部屋にも入り込まれてるのにまったく気づかなかった。つまりだよ、私が殺そうと思えば、いつでも殺せたわけだ」 プルプルと生まれたての鹿みたいに震えていた百々山君の体が、ピタリと静止する。どうやら気づいたらしい、裏社会の情報屋といわれているけど、私から見たら隙だらけで、3日間ずっと心臓をわし掴みにされていたことを。

「その通りだ。こんなお嬢ちゃんに掌の上で転がされるたぁ、若ぇのに耄碌しすぎじゃねぇか、トドヤマァ」

開けっ放しの事務所の扉に、どっかりと巨大な体躯を持たれかけた中年男が、低く野太い、切れ味の悪い鉈のような声を発した。巨体といってもただ大きいだけじゃなく、半袖のシャツから突き出した腕や首元から無駄な贅肉を削ぎ落した上に、鎧のような筋肉をまとっていることがわかる。そして体格と比較しても違和感を感じる大きさの拳と靴。人を殴るために製造された外国製の殺人マシーンです、と紹介されたら納得しそうな見た目をしている。 「お嬢ちゃん、ダルマの姪っ子なんだろう? 話ぁ聞いてる、そろそろ来るんじゃねぇかと思ってたところだ」 後から知った話だけど、この男は鮫たちの元締めみたいな立場で名前はメガロ。鮫の王とされる裏社会の重鎮で、百々山君のような情報や仲介の業者は頭が上がらない。というより頭を上げ過ぎると死にかねない。 私はこの時点で名前も知らないのだから、当然誰だこいつくらいにしか思ってないわけだけど、向こうは叔父からある程度の情報は聞いていたらしく、その手には小振りで不釣り合いな拳銃を額スレスレに押し付けてくる。 「トドヤマァ、こいつはいうならばチートだ。気配を消せるってぇのは今さっき知ったが、こいつの強みはそこじゃねぇ。24時間あれば誰であろうとぶっ殺せるチートじみた能力と、誰にも倒せないバグみてぇな生存能力だ」 ガチンとハンマーの叩く音が響く。引き金を引けばハンマーが起き上がり弾丸が発射される、それが物の道理だ。だけど眼前の拳銃は栓を閉めすぎた酔っ払いみたいに、音だけ立派で何も吐き出さない。 次だ、と次は牛の角でも落とせそうな大振りなナイフを振り下ろしてくるが、今度は柄と刃が真っ二つに離れ離れになって、柄は虚しく空を切って、刃は勢い余って明後日の方向に突き刺さる。 「ダルマの言ったとおりだな……だったら、これならどうなる?」 ナイフだったものを捨てて、拳を握って私に向けて突き出してくる。銃も刃物も駄目なら、素手で倒してしまえばいい。そういう思考は理解できる。 でも、そういうものじゃないのだ。 幼い頃にさんざん叔父に検証実験をされたけど、私は危害というものを加えられない体質らしい。銃やナイフは先程の通り、ロープで首を絞めれば千切れる、毒を飲ませようとしてもグラスに入ってくれない、火を点けようにも油は私を避けるように変な方向へと飛んでいく、叔父が出した結論ではきっと核爆弾や自然災害でも無理だろうという話だ。 だから、当然危害を加えようとする指や腕は、私に届く前に関節が外れ、筋が断裂し、痙攣を起こし、或いはその全てに襲われる。バチンとかゴキリとかベキィとか耳障りな音を立てて、屈強で逞しい両腕がだらりと地面に向けてうな垂れる。 これも後から知った話だけど、メガロの腕はこの時元通りに戻らないくらい痛めてしまって、1週間ほど後に現役を退いたのだとか。いや、私のせいではない。殴ろうとする方が悪い。

「トドヤマァ、試しに仕事をさせてみろ。殺しの方もダルマの言ったとおりなら、こいつはとんでもなく金になる」 「ありがとう、でっかいおっさん。というわけで百々山君、別に今すぐ仕事をくれとは言わないけど、これからよろしくね」 あまり触りたくないけど、百々山君の手を取って、親しみの証拠として上下に何度か振る。叔父の遺した教科書にも書いてあった、人間同士が仲良くするには握手だと。うすら寒い偽善だなって読んだ時は思ったけど、それが世の中のマナー的なものなら従わないこともない。私は世間とか世界に反発したいわけでもないので。 「よ、よろしく……」 どうやらマナー違反ではなかったみたい。私は更に親しくなるためのマナーとして、笑顔を向ける。今思えばぎこちない笑顔だったと思うけど、この時は私なりに頑張ってたのだ。

「あ、そうだ。自己紹介してなかった。共食魚骨っていうから」 「ギョホネ……?」 「うん、魚の骨と書いてギョホネ。あ、でも戸籍上は魚と書いてイオか。まあ、どっちでもいいや」

そして挨拶を済ませた私はカウンターの上に連絡先を書き残して、口笛なんかを吹いたりしながら帰ったのだけど、この直後に百々山君はやっぱり私の存在の大部分を記憶から消し去ってしまって、マンションに帰って大量のアンパンを見て薄っすらと思い出し、慌てて事務所に戻って防犯カメラをチェックしたりしたという。 そこに映ってる黒い靄みたいな物体とか、不思議と再生されない録画データとか、そういう怪異に恐怖を覚えて、それでも情報屋としての知識欲が勝ったのか町中の監視カメラをハッキングして、同様の異常を捕捉して私の移動履歴を割り出し、数日後に再び私の前に姿を見せてきた。正直ストーカーの才能に溢れ過ぎてて怖いので、その時の話はあまり語りたくない。 ただ一つだけ語っておくとしたら、その時に私の名前や姿を忘れても、存在自体は忘れないように【死神ヨハネ】という異名を都市伝説のように流布させて、噂の信憑性を持たせるためにガラの悪い目立ちたがりの薬屋の暗殺を依頼してきたのだ。