2002年7月16日 トモハミフミキ、タテダミズキ、サワイメグミ、カワベカナコ、トノモトジュン、キダエミ 2002年7月21日 トモハミヨシノリ、トモハミサチエ、トモハミアイリ 2002年7月24日 トモハミケンイチ、トモハミカズミ 2002年7月29日 ナカジユウショウ、ナカジサチ、ナカジリク、ナカジカイ 2002年8月 3日 オサハマユウコ 2002年8月 7日 トモハミカズオ 2002年8月11日 シノミヤケイスケ、シノミヤアイコ 2002年8月14日 ダルマヅカタエ

これだけ立て続けに不審な死が起これば馬鹿でもわかる。 共食文樹と形式上の恋人、雇われたシッターたちを皮切りに、従兄弟や親戚たちが次々と謎の死を遂げ、ついに実母の命まで奪われた時、実弟である達磨塚吉嗣は立ち上がった。立ち上がったというよりは、共食家の血統が彼しか残っておらず、共食文樹の一粒種である娘を引き取る役目を買って出るしかなかった、というのが正しい表現だ。 不審な死の中心にはまだ幼い娘、3歳の共食魚がおり、預かるべきか頭を抱えるほど悩んだそうだが、研究者気質な嗜好と好奇心が勝ったのか最終的には引き取ることを決めた。 もし孤児院等の保護施設に託されていたら更なる犠牲者を生み出したはずだから、その点でいえば彼は世界の子どもたちを守った英雄と言えなくもない。もちろん言い過ぎだ、世界という程ではない、でも手を挙げたすべての孤児院が立て続けに壊滅していただろう。 一方で彼は裏社会の住人だった。筋が通っていようといまいと構わず、依頼を受ければ命を奪う殺し屋、しかもその頂点【鮫】のひとりだった。小柄で太り気味、体格に恵まれていない男だったが、しかし他人を油断させるには適した姿をしていて、主な手口は銃に薬物、ガス、他に針や爪などといった暗器を幾つか。 どのくらい殺したのかは定かでないが、少なくとも47人の命を奪っている。

この47人という数字は、引き取った兄の娘の検証実験で使い潰した犯罪者や悪党の数だ。

・共食魚を中心に半径30メートル以内で24時間離れず過ごした者が死ぬ ・24時間は累積時間ではなく連続した時間である ・30メートルの範囲は横方向だけでなく縦方向にも及ぶ ・30メートルの中に体の一部分でも入っていたら死ぬ ・それは指などの切り離された部位でも有効である ・抜けた髪や剥がれた角質などの体が捨てたとみなすものは例外 ・死の効果範囲は子供が移動するのに合わせて移動する ・死ぬ人数に理論上の上限はない

以上が鮫であるダルマが47人のモルモットを使い潰して導き出した正体不明の伝染病の法則であり、更に病原である共食魚に一切の危害を加えることはできない、という謎のルールも偶然的に判明した。 そういう発見もあってダルマは2拠点生活をするようになり、夜間は研究室と名付けた港近くのワンルームで眠り、日中は辺鄙な場所に建てられた中古の平屋建てで引き取った娘と一緒に食事を摂り、たまに気が向いたら散歩に出かけ、時には弁当や菓子パンではなく簡単な手料理らしきものを振る舞い、同世代の子どもに劣らない量の勉強をさせて、1日に1本は必ず映画を見るなどして過ごした。 映画を見せる理由は特にない。だらだらと噛み合うことのない会話を続けるよりは映画を見せた方が楽で、それに映画には名作であろうと駄作であろうと、どれだけ荒唐無稽であろうと作り手の真実が埋められている、というのがダルマの考えだった。 死をもたらす病原である娘を学校に行かせるわけにはいかない。修学旅行や林間学校、部活動の合宿、友達同士のお泊り会、そういったものを断る理由をいちいち作らなければならないのであれば、最初から避けてしまった方が簡単だ。この判断には普段から出来るだけ目立たず、人間関係を増やさず、誰かの記憶に残らないよう努めるべき、という殺し屋としての合理的な振る舞いが深く関係している。それと併せて、世の中は実は案外、経歴や学歴はどうにでも誤魔化せる上に確認されることもないので、無いなら無いで人生の致命傷になることはない、という現実的な側面もあった。

「映画はいいぞー。映画には人生が詰まってる、お前は他の子どもと比べて学校や塾に行かない分、対人経験が少なくなる。それを補ってくれるのが映画だ。成人するまで毎日1本、出来れば3本は見ろ。人間としての厚みを身につけろ」 ダルマは映画を見る前と後に必ずその言葉を娘に投げかけて、テーブルの上にオレンジジュースとアンパンを用意して、ふたり並んで映画を鑑賞した。 そのラインナップに子ども向けのものが含まれることはなく、どちらかというと地味で暗くて陰鬱とした展開のものが多く、幼い娘を楽しませるようなものは無かったかもしれない。

しかしダルマには映画を見せる意図や義務感があり、娘には映画を見ている時の穏やかで退屈な時間が決して嫌いではなかった。

「ねえ、叔父さん、愛ってなに?」 「知らん」 画面の中で愛を語り合う家族の風景を眺めながら娘が問い掛け、ダルマはアンパンを齧りながら即答しつつも、しばらく手に何も持たずに考え込んでから、改めて答えを発した。それは決して娘の興味や探求心を満足させる回答ではなかったが、少なくとも嘘はなく誤魔化しでもない真摯なものではあった。 「俺も兄もおおよそ人間ってものがわかっていない。はっきり言って他人を理解できない欠陥品だ。俺は罪悪感とか同情とか寂しさとか、そういうのを感じたことが1度もない。兄も他人を愛することがなにひとつわかってなかった。俺は頑張って人間のふりを上手に熟そうと人間を研究し続けた。その成果は有って無いようなもんだが……。兄は人間を理解しようと想像力を働かせて、色んな形で人間たちの話を書いた。その時に俺たちの役に立ったものは本だ。映画を見てもわからないことは大抵本に書いてある。たくさん本を読め。本を読めるように勉強しとけ。馬鹿は罪だ、馬鹿は食い物にされるから生きてるだけで死罪に値する。そうならないように勉強だけはしっかりやっとけ」 その言葉を嘘ではないと証明するかのように、ダルマは娘を預かったその時点で既に義務教育を終える年齢までの教科書や問題集や辞書を大量に用意しており、自身の死後も勉強と映画鑑賞を続けるように遺言を残していた。

ダルマはそう遠くない時間の内に死んでしまった。 殺し屋としての探求心か、研究者としての好奇心か、それとも人間の真似事をし過ぎたのか、それは今となってはわからない。しかし親としての義務感のようなものを真似て、自分の死後も少なくとも10年は住み続けられるような絶対に現れることのない失踪した人間名義の家を構え、毎日1000円ずつ食べるに困らないように金が運ばれるように段取り、月末には数万円の纏まった金を運ばせた。遺言には勉強と映画以外にも、例えば身分証として一定の年齢になったらパスポートを申請しろとか、携帯電話を契約しろとか、そのための手続きの方法だとか、出来れば自炊をしろとか、近所の人間に迷惑をかけるなとか、どれだけ寂しくても生き物を飼うなとか、どういう種類の人間には警戒しろとか、この年齢になったら下着や容姿に気を使えとか、生理が来たらこうしろだとか、そういった生きるための手引きのようなものを事細かく書き記していた。

そして……