卑下しているわけではないけど、私は暗がりの薄い影のような人間だと思う。 究極的に影が薄いとか異常に目立たないとか目の前にいても気づかれないとか、そういう体質的な話ではなく、例えば周りに希望を与えられるとか元気を分けてあげれるとか、そういった意味合いでの陰の側なのは間違いない。仮に正体不明の伝染病が無かったとしても、私は明るく楽しく毎日が幸せ、なんて生活は送れないし、どんな暮らしをしても他人を眺めては馬鹿じゃないのって冷笑するような生活を送るに違いない。 そんな私とは対照的に、世の中には太陽のような眩しい存在もいるのだろうけど、そういうものになりたいかと問われれば、その時は静かに首を左右に振ってみせると思う。 太陽は空に浮かんでいるものであって、あくまでも照らしてくる光源でしかない。 だけど世の中には私みたいなのが秘かに暮らしてるように、逆に太陽のような存在だって暮らしてるのだ。
いつも誰かに囲まれていて、いつも誰かと笑い、いつも楽しそうにしている。 私みたいな陰日向の片側から出られない人間だからこそ、そういう照りつけるような光に目を奪われてしまうのだ。
「いつも他人と一緒だなんて、しんどそうだな……」
私の日課のひとつに散歩がある。 本来、義務教育をまだ終えてない年齢であるものの、私は自分を中心に半径30メートル以内で24時間離れず過ごしたものを自然死させる正体不明の伝染病を持っていることもあり、学校にもフリースクール的な場所にも通っていない。実際のところ、24時間一緒に行動するなんてことは、修学旅行とか林間学校とか合宿とか、そういう時くらいしかないのだけど、私を引き取った叔父は万が一に配慮して私を学校に通わせなかったし、私は私で誰かと仲良くなんて考えもしなかったので、叔父の死後も通うことはしていない。 もしかしたらどこかの公立中学校には籍があるのかもしれないけど、今住んでいる場所は父の死後に登録された戸籍上の本籍とは遠く離れているし、住民票もまだ使う必要性がないから叔父と暮らしていた町から移していない。 要するにどこかの町から迷い込んできた野良猫が、勝手に住み着いているようなものだ。実際、空き地に囲まれた辺鄙な場所に佇む、この少し古めの単身世帯向きの小さな家の持ち主とは、1度として会ったことがない。叔父の知り合いなのか、殺し屋稼業なんて営んでいた叔父が本来殺すはずだった相手なのか、それともすでに死んでいるけど死亡届が出されていないだけなのか、考えても仕方ないので考えないようにしている。少々ボロでも住めるなら十分に都、少なくともあと1年と半年以上、私の16の誕生日までは住んでもいいって言われてる。叔父からの遺言で。 そんなわけでひとり暮らしなんてしていると、時間だけは有り余るものだから、朝から散歩することにしている。朝日を浴びるとセロトニンが分泌されるというし、食べ物の買い出しも兼ねて朝から歩いている。日によっては1時間くらいで辞めることもあるし、気分が乗ったら4時間くらい歩く時もある。 そして散歩コースによっては、否でも応でも自分と同世代の学生の列に遭遇してしまう。
その光景を羨ましいとも妬ましいとも思わないし、自分があの中に放り込まれると考えたら薄ら寒いものが背筋を走る。 「いつも他人と一緒だなんて、しんどそうだな……」 でも、普通はああいう生活を経て、多くの煩わしさや少しの喜びから色んなことを学んで、そうやって大人になっていくのだ。 少なくとも家でひとりで勉強して、映画見て、本を読んで、誰とも話さずに暮らす。そういうのが正しくないことは私にだってわかる。 だけど、ヘイ、君たち、仲間に入れろよー、なんてことは口が裂けても言わない。不審者じゃないんだから。そこの距離感間違うくらいなら、一生ひとりでいいし、むしろ不審者よりは知られざる者でありたい。 それが自分から見て眩しい存在感を放っていれば尚更、薄い影のようなものに気づかないで欲しい。海岸の岩を裏返して、こびりついたちっちゃい巻貝を探すような真似をしないで欲しい。そう思うのだ。 そんなことを考えながら時々眺めていたら、いつの間にか挨拶をされるようになって、やがて話しかけられるようになった。切っ掛けは覚えてない、たぶん目が合ったとかそんなところ。 私は影が薄くて相当気づかれにくい体質だけど、対極にあると反対に目立ってしまうのだろうか。よくわからないけど、不思議と私に気づく太陽のような眩しさを持った同年代の女子と、10回に1回くらい出くわしては話をするようになった。 ちなみに残りの9回は単純に気づかれないだけだったりする。私の影の薄さも中々どうしてしぶとくてしつこい。
「え? いおちゃんってひとり暮らしなの?」 「そうだよー」 「いいなー。今度遊びに行ってもいい?」 「いいよ。別に楽しい場所でもないと思うけど」 実の親たちは既に死んでて、親戚もひとりもいなくて、育ての親の叔父も何年も前に死んでることは秘密だ。言えば相手に余計な気を遣わせそうだし、説明するには正体不明の伝染病のことを避けて通れないので、嘘設定として仕事で忙しくて滅多に帰ってこない、ということにしている。ついでに私はどこか私立の学校に通ってたけど、色々あって不登校という設定にしている。どちらも咄嗟についた嘘だけど、普段映画と本に囲まれてる生活をしてるからか、そういう設定を考えるのは少し得意なのかもしれない。 それにしても子どもの距離の詰め方ってすごいな。少し喋ったくらいで仲良し認定されるし、何度か遊んだだけで友達に格上げされるシステムは、思春期特有の現象かもしれない。私があまり害の無さそうな見た目をしているのを差し引いても、怒涛の速さに頭の方がついていかない。その速さを学ぶのが学校なのだ、といわれれば、遅れを取ってしまうのも納得だけど。 「じゃあ、明日、この場所で」 私たちは別れ際に必ずメモを渡すようにした。私の影の薄さは記憶にまで影響を及ぼすことはわかっているし、その時に次の予定のメモがあれば、中身を忘れていてもその日その場所に行ってみようという気になれるからだ。警戒心を抱かないようにメモの隅には必ず、雑でゆるめのイラストを添えて。 ひとりで過ごすことに慣れ切った私でも、その手間暇や習慣を疎ましいとは欠片も思わなかった。 雨が降って憂鬱になる時はあっても、太陽を見上げて心の陰る者はいない。当たり前にそこにあったかのように、私の退屈で変わらない日々に時々光が射すようになった。
「……来ないな」 玄関の前でしばらく待ってみたものの、その日、約束の相手が来ることはなかった。 すでに家には何度も遊びに来ていたし、自慢じゃないけど部屋はいつも綺麗にしている。もしかしたら一緒に見た映画の趣味が合わなかった、というのは可能性として消しきれないけど、前回流した名作は紛れもない名作だったので、そっちの線は薄そうだ。 なんてことを考える辺り、私も人間だったみたいだ。人間であることは疑ってなかったけど、これまで生きてて人間らしい感情を自覚してなかったというか、あまり人間らしい反応をしてこなかったから。寂しいとか落ち込むとか、心配になるとか。 ニンゲンがなんで人間って書くか、ようやく理解した感がある。人と人の間に感情が存在するから、ニンゲンは人間なのだ。 「そんな発見は求めてないんだけど……」 映画を見ながら食べようと思って買っておいたポテチを齧る。こういう時にいつもより味気ないって思う程度には、私にも人間味があったんだなって自覚する。
「なるほどねー」
空が時には曇るように、太陽だって陰ることはある。 特に人間というのはなにもかも当たり前にあると思い込んで、その価値を忘れてしまうから、太陽を陰らせることをしてしまう馬鹿な生き物なのだ。 学生の列の中にあの女子の姿はなく、100メートルくらい離れたところをトボトボと歩いている。この様子を初めに見たらなんとも思わないだろうけど、これまでの和気藹々とした様子を知っていると、自然と違和感を覚えてしまう。 私は人見知り気味に生まれたコミュ障育ちなので、こういう違和感を打破する手段は知らないけど、それでも声を掛けようと思ったのは、偏に太陽はそれでも眩しいからだ。 「どしたん? 話聞こうか?」 前にコメディ映画で見たお調子者の口調と仕草で話しかけてみる。 これが正解だったかどうか以前に、そもそも忘れられてて一瞬、誰って顔をされたのだけど、すぐに思い出してもらって積もるほどでもないけど話をしながら歩き、コンビニでチョコレートだのプリンだの買い込み、家で馬鹿馬鹿しい映画を見ながら過ごした。 私は鮫映画が好きだ。ゾンビも好きだけど、滑稽さでいえば鮫に勝るものはない。ワニや熊もなかなかに侮れないけど、鮫映画は鮫を出すために地上でも家の中でも登場させるための無理矢理感がまず面白い。水道とかトイレとか砂漠とか雪原とか竜巻とか、いちいちバリエーションに富んでるし、鮫の種類も頭が幾つも生えたものから幽霊まで様々だ。 鮫映画を3連発の怒涛の勢いで観賞して、冷蔵庫の余りもので適当に料理を作る。これでも時間を持て余してる暇人なので、オムライスくらいなら余裕なのだ。 ケチャップで『どした?』と書いて差し出すと、なにかしらのツボを突いたのか、背中を丸めて笑い始めた。作戦は成功だ、単にオムライス食べたかっただけなのだけど。