「……雨」
昼寝して起きたら強めの雨が降っていた。 こんな雨の日にわざわざ用もないのに外に出たがる人がいないけど、私は別に用はないけど外に出ないといけないので、こういう時は夜眠る用の部屋には直行せず、あえて寄り道なんかしてみる。 そう、私は生まれつき半径30メートル以内で24時間離れず過ごしたものを自然死させる謎の伝染病みたいなものを患っているから、無駄な死人を出さないために起きてる間に過ごす部屋と夜眠るための部屋の2拠点生活をしている。 普段だったら、この古めの商店街のすぐ裏手にある趣深い部屋で、夕方過ぎまでゲームしたり漫画読んだりして、暗くなったら眠る用の部屋に移動して、ついでにどこかで晩ご飯食べて寝るんだけど、今日みたいな日は濡れるっていうめんどくさい行事がついてくるから、要はどこかで酒でも飲まなきゃやってられないわけなのだ。
せっかく寄り道するんだったらしばらく行ってなかった店にしようと決めて、どちらの部屋からも3キロくらいの距離にあって、前に住んでた歓楽街の中に佇む1軒のバー【聖書・仏陀・義理】へと足を運ぶことにした。その店はいわゆる酒を飲むためだけの店なので、先にある程度おなかを満たしておこうとチェーン系居酒屋お気に入りランキング第3位の豚貴族で、豚串とネギ塩豚タンと明太ポテトサラダとホルモン煮込みとメガレモンサワーとメガジョッキビールを胃に放り込んで、ほどよくいい感じに酔っぱらってバーの扉を潜った。赤提灯をぶら提げた居酒屋で暖簾を潜る要領で、右手をひょいっと振りながら、暖簾ついてないけど。 「あら、いらっしゃーい。お嬢さん、見ない顔ねえ」 「半年くらいぶりだけど50回目くらいかなあ」 これは店主のカオルちゃんが悪いわけではない。私は目の前に立っているのに気づかれないくらい究極的に影が薄くて、絶望的に顔を覚えてもらえないタイプらしいので、50回やそこらで覚えてもらえると思うほど自惚れたりしない。むしろ毎日が初めましてみたいと考えたら、毎日新鮮な気持ちで出会えるじゃないか。いや、こっちはカビ生えたチーズくらい新鮮さゼロだけどね。 「エッグノックちょーだい」 エッグノックはブランデーとラムと卵と砂糖と牛乳で作るカクテルで、カオルちゃんの作るエッグノックは魔女が作ったのかと疑うくらい絶妙に甘い。美人寄りな男なのか、イケメンよりの女なのか、性別は未だにわからないけど。
『はい、どーもー! 馬鹿∞でーす! 名前だけでも覚えて帰ってください!』
バーの片隅に掛けられたモニターから、売れない漫才コンビの馬鹿∞のライブが流れている。 馬鹿∞、バカ・インフィニティーという絶妙に売れる気のない上にダサさと抜け感のある中年男ふたりのコンビで、今年で芸歴20年。全然若手でもないのに名前だけでも覚えてくださいって言ってのけるベタベタなクラシカルスタイルなのに、ネタはどうしようもなくズレてて、隙間の住人みたいな人にしか刺さらないから、その辺のミスマッチもあって一向に売れる気配もなく、いつまでも世間が気づかない自分だけが好きなインディーズバンド的な味わいがある。ちなみに私の好きなインディーズバンドはジョニー・ヘレナ・リトルアンっていう、よくよく考えたら中々どうして悪趣味な名前のバンドだけど、そっちも一切売れる気配はないから味わい深い。 そう、私は意外とニッチな個性派好きなのだ。好きな動物はベタに猫だけど。
『この間ね、ゴリラみたいなおっさんに詰められましてね』 『ちょっとやってみよか、お前ゴリラやって。俺、74丁目の絹川餅さんやるから』 『番地キモッ! そんでその苗字、何?』 『ウホッウホウホッ』 『絹川餅さん、ゴリラやったんかい!』
「あっはっはっはっは!」 画面からも店内からも笑い声は一切聞こえないけど、私の中では馬鹿∞はめちゃくちゃ面白いからいいのだ。爆笑したっていいじゃない、暗く陰気に飲むよりは。 「変わった趣味ね。この人たち、うちの常連だけど、未だにさっぱりわからないわ」 「えー……私の中では、ぶふふぉぅ……だいぶ、ぶぷぷふふ……おもしろ、ぶふぉー!」 カオルちゃんにも面白さは伝わってないみたいだけど、私はもう会話も出来ないくらいツボに嵌っちゃって、雨の日はやっぱり寄り道してみるものだなーって思ったりした。
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4月1日 養成所を卒業した俺たちは、ようやくプロの芸人としての第1歩を歩み始めた。 コンビ名は相方と俺の苗字を取って、馬野と鹿島で馬鹿∞、お笑い芸人は馬鹿なほど売れるから一生遊んで暮らせるくらい売れるように∞もくっつけた。芸名はンが入ると売れるってジンクスからインフィニティーって読むことにした。 今日は第1歩にふさわしい足跡をつけるために、屋根の上からコンクリ塗り立てのところに飛んでみた。 馬野のバイト先の親方に、顔の形が変わるんじゃないかってくらい怒られた。